ちょっとした変化に気付いて、そう思えた自分に嬉しくなった

私が他人の評価が絶対だと思っていた頃、

後輩や同僚か変化していくのが怖かったし疎ましかった。

自分より秀でてほしくない、置いていかれたくない。何より必要ないと思われたくなかった。

劣等感の塊で出来ていた私は何とか自分を保つため表面で褒めては「でもこれは出来ないくせに」「人の陰口ばっか言うくせに」と心のなかで相手を落として見下していた。

いつも形のない「何か」に追われて焦って消耗してた。

自分で。勝手に。

 

今日、後輩の変化に「これも出来るようになったんだ。すごい、頑張ってるな」と素直に嬉しく頼もしく思った。

周りが敵でも蹴落とす相手でもなく、味方で持ちつ持たれつの助け合える(もらえる)ものに変わった時、身体が柔らかくなった。

がちがちに固めることなく、ぶつかり合う事をしなくなったら、空気の感じ方が変わった。

 

人に頼ることは恥ずかしいことでも情けないものでも負けでもないと実感できたこと。

 

私は良い子になるために生まれてきたんじゃない。

期待されるのも、がっかりされるのも。

やっぱり無理だったかと言われるのも、

だからお前なんかにできるはずなかっただろ?父さんの言ったとおりじゃないか。

 

頼むから変なことしないでくれよ。

俺の出世の邪魔になることは絶対するな。

人間なんてみんな屑ばっかなんだ。

と言ったのは父。

 

ここは貴女の家じゃなくて、お父さんとお母さんの家なの。

いつだったかそう言ったのは母。

 

心配してくれて、愛されて育ててもらった。

多分。

弟妹より「気にかけてもらえなかった」り「両親の一番」じゃないことだけは分かった。

母は弟が、父は妹を優先して手をかけた。

 

被害妄想だとわかっているけれど、「私は大事じゃない」「居なくなっても困らない」「3人同時に事故や災害に巻き込まれたとき一番はじめには助けてもらえない」のだろうと自尊心や自己肯定感を卸がねでするような気持ちで生きてきた。

 

言葉には力があって、時に人を縛る。

 

誰かのための「良い子」になるために生まれてきたんじゃない。

でも、期待に沿えない自分をこんなに嫌いになりたくはなかった。

 

食べる満たされない食べるもっともっと

お腹いっぱいになって「んー美味しかった!しあわせー」と思いたい。

ただそれだけだったはずなのに。

いつまで経っても満たされない感覚に

焦って、不安で、おかしいて思いながらも

食べるのをやめられない。

こんなにこんなに食べてるのに。

満たされない満たされない満たされない。

 

食べることが楽しいとか好きだからとか、

プラスの感情があって、食べ始めたのに。

結果残ったのは膨満感と吐き気と醜く太った身体。

 

こんなはずじゃなかったのに。

ただただ美味しい美味しいって楽しく居たかっただけだったのに。

 

太るから、これ以上醜くならないように食べない。

 

そうしてまた飢えていく。

身体も心も。

 

終わらない拒食と過食。

表現方法や範囲が広くなって、何を使って表現する?

人々がスマホや携帯を持って、写真や映像を誰にでも共有出来るようになって。

調べれば何時でも見れるようになったこの時代。

感動や五感で得られたものを自分の言葉で伝える事が少なくなったと思う。

百聞は一見にしかず。

自分が言葉を尽くすより見てもらった方がはやい。

誰かに思い出を話す度にそう思うから、自分が感動「しそう」な場面を、一生懸命「記録」する。

なんだか寂しい気がする。

良いものを共有したい気持ちは理解る。

たくさん、何が良かったのか、何に心を動かせたかを自分の言葉で伝えたいと私は思う。

 

でも「伝えたい!良いものを共有したい!」って気持ちは変わらないのだから手段の差なだけで、何を用いるかはその人次第なんだろか?

 ……うーん、気分の問題なのかな。

「良かった!たくさんの人に見てほしい!」と言うのなら、写真や映像のほうが相手に対する主観もなくて素直に見れるし……。とも思う。

 

書いてて意見がまとまらなくなってしまったのでこの件は次回に持ち越そう(次回は未定)。

 

「気を利かせて他の人のフォローに入っても評価が上がるどころか下がる」

のを、実感として理解し、納得したので書こうと思いました。

 

私は2ヶ月前まで精神科のリワーク(復職支援)に通っていた。

その間先生に1番言われていたことは

「自分が良かれと思ってやったことでも、それが誰かの助けになっていても周りの評価がない、または評価が下がって自分が損をする。それはもっいない。」

私は周りに困ってそうだなー、と思う人がいるとつい声をかけてフォローに入ったり、他人の仕事を肩代わりして、自分が苦しくなるということをよくやってしまっていた。

それを改善する為の1つの考え方なのだと思っていた。

でも「お礼を言われたら嬉しいし、お店は損をしてないし悪いことではないのでは?」とこの考えに疑問をもっていた。

 

違った。

 

考え方なのではなく、事実としてあるのだ。と知った。

はじまりはバイト先で。

リワークへの診察費交通費薬代等が払えなく成りけたので、バイトを始めた。

バイト先はヒー●テック等でも有名なアパレルブランドで、はじめてから2ヶ月経ちそれなりの評価を得ていた。(別店舗での経験有りなのも含め)

清掃業務を任され

・服のホコリを飛ばし

・畳んで置いてある台の上を拭き

・鏡を拭く   までが私の仕事。

ここに床のモップがけとチェックが入り清掃完了なのだが、ここが問題だった。

結論を言うと「時間通りに作業が進まなかった人の代わりにモップがけに入ったら、本来担当する人から何故もっと早く出来なかったの?と聞かれたうえに清掃完了していない理由を私の不手際、『指示されないと動けない人なんですかね?』と上に報告された」。

 

私も悪かったのだ。

その人にも上にも代わりに入りますと言わなかった。

反省したので次やるならきちんと言うか、やらない。

まさか担当者から「なんでまた終わらないの?」と言われるとは思わなかった。 

 

人にがっかりしてしまうのだから、もう期待しないようにしたい。

でもそれも少し寂しい、気もする。 

おかえり

「ただいま」と言うと「おかえり」と迎えてくれる人が居ること。

 自分の帰る場所があること。

それが温かく優しい場所だと知っていること。

 

人を集団ではなく、1人ひとりに個性や帰る家、帰りを待っている人が居ること。

帰らなければ悲しむ人が居ること。

 

それを知っていれば、戦争は無くならないにしても、少なくはなるんじゃないかな。

 

72年目の終戦の日に。

聞き上手になりたーい

何やら恋人がぐれている。

分かってるのは

なんか自分がダサくなってて、そんな自分にがっかりしてる。それだけ。

 

何をダサいと思ったのか、 

誰かと話してて気付いたのか、

実家で両親となんかあったのか、

「こんな大人になるつもりじゃなかった」ってやつなのかな、

とか、聞きたい事はたくさんあるのに、「さりげなく」聞きだすって難しい。