距離感

私に足りない感覚。

感じ取って適度にとれないもの。

 

私の生きづらさの原因のひとつでは?と指摘された。

 

なるほど。そうかもしれない。

私が近付きすぎたか、引きずり寄せてしまったのか、どちらでも一緒だけど、相手が快適な距離を取ろうとすると、そこに真っ白な箱のような空白な何かを感じていた。

それに対して寂しさを覚えていた。

自分がないようにぴったりくっついてみたり、もういいやと関係を終わらせてしまったりしていた。

だから「相手にとって心地よい」距離の取り方を覚えずに来てしまったんだ、と思う。

 

今まで付き合いを続けてくれた人たちに対して、申し訳なさや、恥ずかしさ、罪悪感、悔しさを感じた。

人としての未熟さに気付いた。だから、恥ずかしかった。

 

まずは、自分の軸を作って居場所を確保することだ。と指摘したその人は言った。

確固たる自分がないから、色んなとこに移動して、相手の望まぬところまで行ってしまうのだと。

 

じゃあまず、居場所作りから。

他のだれに知られなくても、私が居るよ、要るよって言ってあげられる場所作りからはじめてみようか。

 

ブランコで出会った女の子

5月にしては暑さを感じる日だった。

 

鳥に近づきたくて、一瞬の無重力を味わいたくて、最後に乗ったのは何時だったかなど思い出せないほど久々にブランコに乗った。

度々起こる事故を「起こさないように」遊具が撤去されていった数年間。

今ブランコがある公園はいくつくらいあるのだろうか。

 

ピンクチュニックにジーンズを履いたの4歳くらいの女の子。

おじいちゃんと遊びに来たのだろう。

ベンチに座りお茶を飲んで休憩としていたと思ったら、こちらを見てそろりそろりと近づいて、ぴょんと跳ねるようにブランコにのる。

足が地面につかないから、カチャカチャと金具がなるだけ。

 

トンっと背中を押すと体がふわりと浮かぶ。

驚いたようにこちらを向いた少女に「怖くない?」と聞くとぱっとした笑顔で「うん!」と言って前を向く。

お互い無言で背中を押して、押されて上に浮かぶ。

何回か繰り返したころにおじいちゃんが「相手してもらってすみません。代わります。」とこちらに来たのでバトンタッチ。

きゃっきゃとはしゃぐ少女の声。

やはり知らない人は緊張してたのだろう。

 

悔しいような、微笑ましいような気持ちを抱えて、ブランコから離れる。

 

あと何年、あんな風景が見られるのだろう。

6時間前の私へ

復職支援に行って来ました。

 

働き方に対する違う考え方や目的、認知行動療法による自動思考の切り替え。

みんなとの何気ない会話。

 

壊される直前の車を見ていた時とは、だいぶ変わりました。

 

塗装して、ガラスも磨いて、ガソリンも少しずつ入れてもらって。

見た目は良くなりました。

少しなら走れる量のエネルギーもある。

 

人と関わって、これだけ変わりました。

 

明日は中を掃除しようかな。

 

そんな風に思えるようになったよ。

大丈夫、ひとりじゃないよ。

気力のない私へ

寂しいさみしい

認められたい否定しないでほしい

愛されたい大事にしてほしい

傷つけないでほしい

 

今の自分を保つのに精一杯で、考え方を変える気力が浮かばない。

 

今の自分に自信がないから、誰かに大丈夫だと言ってほしい。

 

傷だらけで動かない車を、まだ乗れるから。問題ないから。と売りに出してるようだ。

魅力的じゃないことは分かっているのに、それでも誰かに「いいね」と言ってほしい。

 

そんなことあるわけないのに。

 

売りに出す前にメンテナンスして、ガソリンいれようよ。

そしたらもう少し、魅力的になるからさ。

万引きは窃盗罪。いじめは恐喝、暴行罪。

犯罪行為をオブラートに何重にも包んで、思春期の反抗期だからとか若気の至りだとか言うのはやめませんか?

窃盗は若者だけではないですよね。

高齢の方も「ゲーム感覚」でやってしまう事があると聞きました。

 

盗んだものは、小さなものだったかもしれません。それが積み重なればどうでしょう。

 

「あいつなんかムカつく」「ちょっとからかってやろう」程度の思いだったのかもしれません。人から分けもわからず攻撃され続けられたらどう思いますか?

 

窃盗が多発してお店が潰れる。借金に追われる事態かもしれない。

暴行をうけて心身に傷がついて、社会に出られなくなる、死を選ぶかもしれない。

その代償を背負えるだけの心はありますか?

 

ないでしょう?

昔のことだ、と言って逃げるでしょう?

 

被害者は覚えています。忘れません。

 

耳当たりのいい、やさしい言葉で表現された犯罪行為。

その言葉を使うのも、黙認するのもやめませんか。

罪を犯したなら罰を受けるのが道理。

 

犯罪者を増やすのやめましょう?

それは犯罪だと教えましょうよ。

次の世代には言葉そのものがなくなってると良いな。と願います。

キャンドルを灯したい夜

今日はほんとに久しぶりに家族と時間を過ごした。

成人してこどもではないのだけれど、

「今日はこどもの日だから」と

一緒に公園に行ったり、買い物をしたり、食卓を囲んだりした。

懐かしい事が少し寂しく、またこれが両親の望んだ家族の姿なのだろうか、と考え今の自分との落差に気持ちが乱れた。

 

私はこどもじゃないのだ。

 

父からそう断言されたのだ。

 

今日過ごした時間が虚しくて寂しくて、

他人に埋めてもらいたくて過剰に連絡する。

 

いつになったら、私は私のことを満足させられるのか。

 

白檀の香のキャンドルを灯した「こどもの日」夜に「こどもではない」私からこぼれたものは。

私の失敗の原因は

現状に、疑問を持たないこと。

だから他人からしたら『普段と明らかに違う事』であったとしても、その理由に関心がなければ疑問などおきない。

そして独自の判断で物事を進めてしまう。

 

そしてそれを、何度も繰り返すのだ。

注意を受けて、その時はじめて自分が「似たようなことで怒られて」きたことに気付き、自分の学習能力の無さに落ち込み、自己批判をして苦しくなって泣いてしまう。

 

私も注意する人も、誰も得をしない。

この状況を打開したいと思っている。

しかし、疑問に思わなければ『確認』することが出来ない。

これでいいんだろうな。で終わってしまう。

 

気付くこと、疑問を持つこと。

それを踏まえて確認すること。

 

社会人、でなくても出来なきゃ困る事例なのに、未だ解決出来ていない。